収蔵資料

収蔵資料の紹介

対馬宗家(そうけ)文書

対馬宗家が作成・管理した文書資料群。

藩政資料が中心ですが、一部近代文書も含みます。萬松院(対馬宗家菩提寺)境内倉庫に保管されていた歴史があることから、その名を冠して「宗家文庫史料」と通称されます。

総数は約8万点。うち51,946点が「対馬宗家関係資料」として、国の重要文化財に指定されています。

重要文化財「対馬宗家関係資料」

【平成24年9月6日】
日記類/記録類…………16,667点

【平成27年9月4日】
文書・記録類/絵図・地図類/典籍類/印章類/書画・器物類……35,279点

計51,946点

毎日記が収められた収蔵庫
(@長崎県立対馬歴史民俗資料館)

「宗家文庫史料」について

対馬は、九州本土と朝鮮半島との間に位置する「国境の島」です。
行政区域は長崎県に属しており、平成16年(2004)に6町(厳原町・美津島町・豊玉町・峰町・上対馬町・上県町)が合併したことで対馬市が誕生しました。

博多(福岡県)まで航路にして約130キロ、釜山(大韓民国)まで約50キロであり、より朝鮮半島に近いことが分かります。
島の90%以上が山地で占められ、農業生産(特に米)に乏しいことから、古くから朝鮮半島との関係を築いてきました。

その対馬を長きにわたって治めていたのが対馬宗家です(13世紀末~19世紀半ば)。

「鎖国」で知られる江戸時代においては、江戸幕府が設定した「四つの口」(長崎口・対馬口・薩摩口・松前口)の一つを担い、日朝関係史上、重要な役割を果たしてきました。
朝鮮との外交・貿易は、特に故事や先例が重んじられたことから、膨大かつ「国際」性に富んだ対馬宗家文書が生み出されることになったのです。

萬松院境内倉庫時代の対馬宗家文書
(田代和生氏提供)

現在、宗家文書は、日本国内外7ヶ所の収蔵施設で分割保管されています。

その7ヶ所とは、①九州国立博物館(福岡県、約1万4,000点)、②國史編纂委員会(大韓民国、約2万8,000点)、③長崎県対馬歴史研究センター(長崎県、約8万点)、④国立国会図書館(東京都、約1,500点)、⑤慶應義塾図書館(東京都、約1,000点)、⑥東京大学史料編纂所(東京都、約3,000点)、⑦東京国立博物館(東京都、約160点)です。
これらの施設が有する宗家文書は実に12万点を超えており、現存する大名家文書の中でも国内最大級と言われています。

今でこそ宗家文書は7ヶ所に分割保管されていますが、それぞれの収蔵施設を遡ると、A対馬藩庁(府中)、B倭館(朝鮮釜山)、C対馬藩江戸藩邸に行き着きます。
A~Cは江戸時代における対馬藩の拠点であり、各地では宗家文書の作成・管理が行われていました。しかし、江戸時代が終わると、各拠点に残された宗家文書は様々な理由から移動を余儀なくされます。

その中で最大の点数を誇り、宗家文書の中核を占めたのが「宗家文庫」でした。

対馬宗家文書保管所の変遷
( 田代和生「国立国会図書館所蔵『宗家文書』の特色」〔『参考書誌研究』76、2015年〕より引用、一部加筆 )

「宗家文庫」は、明治時代以降、A対馬藩庁(府中)の資料の大部分と、B倭館(朝鮮釜山)・C対馬藩江戸藩邸の資料の一部が、府中(厳原)にあった桟原屋形(対馬藩主の「居城」として機能)に集められたものです。

桟原屋形の「宗家文庫」は、同じく府中(厳原)にあった根緒屋敷跡、萬松院(対馬宗家菩提寺)境内倉庫へと移転し、その大部分が現在、長崎県対馬歴史研究センターに引き継がれています。
しかし、途中で分かれてしまったものもあり、それらが九州国立博物館収蔵分(約1万4,000点)・國史編纂委員会所蔵分(約2万8,000点)を形成しています。

つまり、九州国立博物館・國史編纂委員会・長崎県対馬歴史研究センターが収蔵する宗家文書は、「宗家文庫」の流れを汲む史料群、ということができるのです。

「宗家文庫」の移転
(古川祐貴「対馬宗家文書の近現代」〔『過去を伝える、今を遺す』山川出版社、2015年〕)

文化庁は早くから宗家文書の価値に言及し、九州国立博物館・国立国会図書館・慶應義塾図書館が収蔵する宗家文書の重要文化財指定を進めてきました。
しかし、長崎県対馬歴史研究センター(当時:長崎県立対馬歴史民俗資料館)分=「宗家文庫史料」に関しては、全貌が明らかでなかったこともあって、指定調査を開始できないでいたのです。

そのため長崎県では、平成19年(2007)以降、全貌解明に向けた調査を開始します。
結果、「宗家文庫史料」は、昭和50年(1975)以来断続的に行われてきた調査が完了することとなり、その成果が報告書や展覧会のかたちで公表されました。

文化庁は長崎県の調査を待って指定調査を開始し、平成24年(2012)と同27年(2015)の2度にわたって、51,946点の「宗家文庫史料」を重要文化財指定しました。
これによって複雑な経緯を辿ってきた「宗家文庫史料」は、そのほとんどが「日本の宝」「日本国民の宝」として認知されるとともに、文化財保護法という法律によって守られることとなったのです。

長崎県立対馬歴史民俗資料館の調査歴
(古川祐貴「流転の「宗家文庫」」〔『対馬』九州国立博物館・対馬市、2017年〕より引用)

その他の収蔵資料

【中世資料】

高麗版大般若経

(国指定重要文化財、宗教法人長松寺寄託)

朝鮮王朝から対馬宗氏に贈られたと思しき経典。
契丹軍の朝鮮半島侵攻(10世紀末~)を機に作られた版木で印刷されていますが(これを初雕本と言います)、その版木は後のモンゴル軍侵攻(13世紀前半)によって全て焼失してしまいます。
そのため初雕本の経典は日韓合わせても2600巻程度しか残っておらず、宗教法人長松寺(対馬市上対馬町琴)に586巻も伝来することの重要性が窺えます。

小田家文書

(国指定重要文化財、県所有)

大山(現・対馬市美津島町大山)を拠点とした小田家伝来の中世文書。
鎌倉時代から安土桃山時代(14世紀前半~16世紀末)までの全48通の書状を、1つの巻物としてつないでいます。
中世対馬の政治史や産業史、交流史を具体的に浮かび上がらせる貴重な史料と言えます。

涅槃図

(県指定有形文化財、宗教法人醴泉院寄託)

釈迦入滅の様子を描いた絵画資料。
入滅の悲しみを追体験したり、仏恩に感謝したりする涅槃会(釈迦の命日である2月15日に行われる伝統行事)の際に用いられました。
本図を収める木箱の書き込み(墨書)から、中世にまで遡る仏画であることが分かっています。

青磁牡丹唐草文花瓶

(県指定有形文化財、宗教法人多久頭魂神社寄託)

中国・龍泉窯で製作されたと考えられる大型の花瓶。
青磁の花瓶は仏前具として使用されたことが知られています。
本作品は宗教法人多久頭魂神社に伝来したものですが、同神社では近世まで観音堂というお寺であったことから、堂内に飾られていた可能性が指摘されています。

【近世資料】

大浦家文書

(県所有)

大浦家は宗氏の対馬入島以前より国人衆であった家柄。平安時代末期から対馬で権力をふるった阿比留氏の庶流とも、後に阿比留氏との地位を逆転させた宗氏に加担したとも言われています。
大浦(現・対馬市上対馬町大浦)に知行地を与えられていたこともあって、豊臣秀吉の朝鮮侵略(1592~98年)の際は、小西行長や毛利高政より書状が発給されています。
そのほか宗氏重臣の柳川氏からの書状を含むなど、中近世移行期の対馬情勢を知る上で欠かすことのできない史料群です。

小西行長書状

杉村家文書

(県所有)

杉村家は対馬藩の家老職を務めた家柄。
安永5年(1776)に江戸幕府より永続御手当金を取り付けた功績により、代々家老職の上席、豆酘(現・対馬市厳原町豆酘)村半村を賜り、石高は1,800石となります。
文書の内容は、主家(対馬宗家)に関するものから、藩財政関係、朝鮮関係と幅広く存在します。
中でも「御上京之時毎日記」は江戸時代において唯一ソウル行きを許された杉村采女の記録であり、本藩の対馬宗家文書にも残されていない貴重な史料です。

「御上京之時毎日記」(寛永6年〔1629〕)

齋藤家文書

(個人寄託)

齋藤家は中世以来、宗氏に従軍した旧家中の名門。
久根(現・対馬市厳原町久根浜)に知行地を与えられ、幕末期には家老として厳原に移り住みました。
近代においては、宗家事務所(東京移住を命じられた宗家と対馬をつなぐ連絡事務所)の中心を担い、対馬宗家文書の保存・管理にも尽力しました。
徳治3年(1308)9月13日付宗盛国書下をはじめ、中世の判物類に白眉なものが多いですが、宗家から譲り受けたと思しき近世史料も含まれており、対馬宗家文書を補完する史料として注目されます。

対馬藩主宛て朝鮮国礼曹参議書契(丙午年7月日付)

西山寺関係資料

(宗教法人西山寺寄託)

対馬市厳原町の西山寺に伝来した文書群。その大半が近世文書であり、寺社関係のほか、朝鮮外交に関する史料が多く残されています。
同文書群に外交関係のものが含まれるのは、西山寺に以酊庵が設置されていたことに由来します。
以酊庵とは、対馬宗家の朝鮮外交に深く関わった寺院のことであり、漢文の素養を身に付けた禅僧が京都五山より派遣されていました。
画像は、以酊庵を創設した景轍玄蘇(1537~1611年)宛てに送られた書契(日朝間で交わされた外交文書)です。
このほかにも以酊庵の日記や朝鮮からの外交使節団(訳官使)の記録などが伝来しています。

景轍玄蘇宛て朝鮮国礼曹佐郎書契(万暦39年〔1611〕12月日付)

【近代資料】

内野・津江家関係資料

(個人寄託)

津江家は倭館移転交渉の最中、朝鮮で横死した津江兵庫助(御馬廻)につながる家柄。
その歴史はもっと遡りますが、津江家に関する文書は意外と少なく、むしろ親類筋の内野家のものが大半を占めています。
内容は和歌集、祝詞・神祇、家系図、地誌、随筆など多岐にわたっており、旧制対馬高等女学校で校長を務めた内野久策(うちのひさかず)の蔵書や、久策の実子にあたる津江篤郎(つのえとくろう)の絵画も含まれます。
久策・篤郎父子は2代にわたって対馬宗家文書が収められた御文庫(萬松院境内倉庫)の管理を宗家から任されていたこともあって、管理に係る記録も少なからず残されています。

日本常民文化研究所・宮本常一直筆「宗家文庫」借用証(昭和25年〔1950〕)
津江篤郎作「島の春(ゲンカイツヅジ)」

対馬島庁関係文書

対馬の長崎県編入(1872年)に伴い設置された長崎県出張所を母体とする官公庁に伝来した文書群。
対馬島庁という名称は、明治19年(1886)~大正15年(1926)まで実際に使われました。
文書の内容は、人事や寺社、統計、山林、地籍、令規、官地、土木・営繕・橋梁、衛生、要港、外務など多岐にわたります。
一方で、近世期(17世紀)の検地帳や物成帳、明治・大正・昭和期の総町村組合関係のものも含まれることから、対馬島庁の関係文書としています。

半井桃水書簡

半井桃水(1860~1926年)は府中(現・対馬市厳原町)出身の新聞記者・小説家です。東京の共立学舎で学んだのちに記者となり、各地の新聞社を転々としていましたが、釜山在留中に送った現地報道をきっかけに朝日新聞の特派員となりました。
明治21年(1888)には正式に東京朝日新聞へ入社し、それからは『胡砂吹く風』や『天狗廻状』など多くの新聞小説を執筆しました。
また、樋口一葉(1872~96年)の小説の師匠としても有名です。
画像の書簡は、桃水が同郷の先輩へ送ったものです。

反故廼裏見

明治時代後半、対馬の史料収集に全てを捧げた内野対琴が著述した全27冊からなる史資料(そのうち24・25巻の2冊は欠本)。
同書は明治38年(1905)から対琴が対馬島内で実施した歴史・民俗調査の成果で、古文書・古典籍・古地図・系図などの写し、風景・遺跡・建築物のスケッチ、古老の話などが収録されています。
この中には現在では見ることのできない貴重なものがたくさん含まれており、分析次第ではこれまで解明されていなかった対馬の新しい歴史が明らかとなる可能性があります。

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